天体観測

 001
京に降り立ったばかりの姫君の噂は、既に内裏の中にまで知れ渡っていた。
ほんの数ヶ月前までは知る人ぞ知るという立場として、あまり世には顔を知られていなかった『龍神の神子』は、京に平安が戻った今日、土御門に住むもう一人の姫君となり、京の世界で生きている。

何事もなく、穏やかに日々が過ぎて行く。

季節は、緩やかに変わり始める。

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「……なのだそうだ」
「ほう。それはまた、一度お目にかかりたいものだなぁ」
内裏内では、公達が何やらひそやかに会話をしている。
この輩どもが話す内容と言ったら、所詮誰かのうわさ話くらいだろう。気にするほどのものではない、と、友雅はその横を通り過ぎようとした。
しかし、その耳に入ってきたわずかな内容を聞くと、身体の動きはぴたりと一瞬止まった。


「土御門の左大臣の姫君と言ったら、まだ十くらいの童だと思っておったが…隅に置けぬなぁ。そんな良い年頃の姫を隠しておったのか」
「ううむ。よほど大事に育てられたようだな。噂など聞いたこともなかったぞ」
「私も最近になってからだ。屋敷でちらりと顔を見たことのある者の話によると、花のように艶やかな姫君とのことだ。一度見てみたいものではないか?」
「それはそれは、興味がありますなぁ」


多分彼らの噂になっているのは、彼女のことに違いない。
実は友雅も、ついさっき清涼殿の中で出会った中将に、同じようなことを尋ねられたのた。

「橘少将殿は、よく土御門の屋敷に向かわれるのだろう?」
「はぁ。八葉としての務めの際に、多々なる世話を頂いたものですので、その後の様子を伺いに参っております」
「そうか。ならば知っておるだろう?今、内裏でも噂で持ちきりだ。土御門に住む、もう一人の姫君についてだ。どんな姫なのだ?」
友雅は、少し答えを考える。
そして答えた。
「残念ながら、私も姫のお部屋までは伺ったことがございませんので、どのような方なのかは存じ上げません」



男達は、あちこちで彼女のことを囁く。
そのたびに友雅は、ためいきなどをついてみる。
「どこで聞きつけたんだろうねぇ、好奇心だけは一人前だよ、彼らは……」
苦笑しながらいつものように、土御門の屋敷へと通う。
噂の姫君の顔を愛でるためだけに。


■■■


鬼との決着が付いたあと。京に平穏が戻ったあと。
あかねは龍神の神子の役目を終えて、元の世界へと戻ることになっていた。
一度戻ったら、もうこの世界に来ることは出来ないかもしれない。一瞬の出逢いと、一瞬の別れ。
そしてそれは永遠となる。
一抹の寂しさ。そばにいたあかねの存在が、この京の世界から消えて行くこと。

出来るのならば、このままここに残ってくれたら………友雅は、そんなことを願った。
おそらくそれは、友雅だけではなかっただろう。八葉の誰もが、少なからずそんなことを考えていたに違いない。
そして、彼女を慕い続けた藤姫もそうだったろう。



とある朝、土御門の屋敷に出向いた友雅が見たものは、妙に嬉しそうな藤姫の姿だった。
いつもなら大人びて、きっちりとした強い瞳の光を発している彼女だったが、この時の彼女の表情は、無邪気な少女そのものだった。

「藤姫殿、今日は随分ご機嫌がよろしいようですね」
几帳を上げて友雅が顔を覗かせる。藤姫は十二単をくるりと回して、手に持っていた着物を愛おしそうに抱えた。
「まあ、友雅殿!聞いて下さいませ!! 藤は…今日ほど嬉しかった日はございませんわ」
「おやおや、どうなされたのかな。私も聞きたいですね。藤姫殿がそこまで楽しそうにしているのを見るのは初めてだ」
蓋を開けた葛籠の中には、色とりどりの生地が見え隠れしている。
うっすらと染まった桜色の衣。あかねが着たら、さぞ似合うのではないだろうか……。
そんなことを考えた友雅に、はずんだ藤姫の声が聞こえてきた。

「神子様が、この京に残って下さると言って下さったのですよ」

その一言を聞いたとたん、友雅の目の前に広がる世界が、一気に明るく照らされたような気がした。



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Megumi,Ka

suga