★★★薔薇の名前★★★
桜の季節もとうに過ぎ、新緑が日を追うごとに鮮やかになってくる。
少し汗ばむ気温も増えてきて、たくさんの花があっという間に蕾から開花する。
「こんちはー」
「いらっしゃいませイノリ殿ー」
玄関を入ると、三人の子どもたちと共に女主人がイノリを出迎えた。
「裏口開けてあるから遠慮なくどうぞ」
「おじゃましまーっす」
そう言って、再び彼は外に出る。
大きめの作業用リュックを背負い、屋敷の裏に向かった。

橘家は外から見える部分は完全な日本家屋だ。
所謂数寄屋造りというもので、明るい木目と美しい日本庭園のようなエントランスが落ち着きと風格を醸し出す。
しかし屋内は程よく現代風にリフォームされており、子どもたちや若い夫婦が住みやすい和モダンなインテリアになっている。
庭の造りも同様で、玄関が来客をもてなすためのものだとするなら、裏庭はあくまでプライベートな庭。
松や桜や梅は表に、裏は家人を楽しませる華やかでカジュアルな花木が植えられている。
五月末から六月に庭を彩るのは、何と言ってもバラだ。
今年ももうすぐ咲き始める頃なので、枝振りや防虫対策などの点検にイノリは橘家を訪れたのだった。
「んー、特に問題はないかな」
壁に取り付けられたアイアントレリスには、長く伸びたバラのつるが誘引されている。
風通しや日差しを考慮した上で、開花した時に綺麗に見えるように冬場の作業をしっかり行ったからだ。
子どもたちがいるため害虫対策の薬剤使用は最低限、という条件は正直なかなか難しいことなのだが、葉の色つやも良いしこれならあと1週間ほどで開花し始めるだろう。
「蕾がいっぱいついてるでしょう?今年も綺麗に咲いてくれるかしら?」
「問題無し!壁一面が真っ白なバラで埋め尽くされるぞ」
いつのまにか庭に出てきていた千歳たちが、イノリの横でバラの枝振りを見上げる。

『アイスバーグ』か。バラの中でも名花中の名花だよな」
大輪ではないが純白で優しげな花びらを持つその品種は、棘も少なく比較的病気にも強いので世界中で愛されている。
満開に咲き誇った景色は名前のとおり、まるで氷山を思わせるかのよう。
「『シュネービッチェン』って名前もあるのよね。父様が教えて下さったわ」
このバラを植えたのは、彼らの父である友雅だ。
10年近く前のこと。造園業を営むイノリのところに連絡があり、庭にバラを植えたいとの注文があった。
植える場所の環境に合った品種を見繕って欲しいと言われ、用意したカタログの中から友雅が選んだのがこのアイスバーグだった。
「ドイツ語で白雪姫って意味なんだ」
「そう。だからこれは母様のバラなの」
花の説明書きを見たとき、彼は即座にこの品種を選んだ。
可憐で清楚な花の印象はまさに白雪姫のようで、彼女を迎え入れるにはこれ以上ない相応しいバラだ。
つまり彼は、橘家に嫁ぐあかねのためにとこのバラを植えようと考えていたのだ。
年々枝やつぼみは増えてゆき、今では壁一面が花で覆われるほど大きく育った。
「ねえねえイノリ殿、私たちのバラも見て下さる?」
「よーし、こっちも綺麗に咲いてもらわないとな」
イノリは壁面から離れ、今度はテラコッタの鉢植えのバラに目を通す。
外国製の大きめな鉢が三つ。オベリスク仕立てで、これらもしっかり誘引と手入れがされているので問題はなさそう。
小さいがつぼみも多くついているので、アイスバーグの白い壁に映える色の花が咲くだろう。
「これは私のバラ。母様とおそろいなの」
鉢の横に並んで立つ千歳が、嬉しそうにそう言った。
『シュネープリンセス』。これもまた、白雪姫という名前のバラである。
コロンとした丸みのある小さな白いバラで、背丈は大きくならないが枝に溢れるように咲く姿は愛らしい。

「小さな白雪姫には、これ以上ないぴったりの品種だよ」
穏やかかつ艶やかな声に振り返ると、橘家の主人がデッキから庭の様子を眺めていた。
子どもたちがこちらへ駆けてくるよりも先に、友雅はサンダルに履き替えて彼らの元へと歩いて行った。
「王子様のバラはどうかな」
「大丈夫っすよ。今年は特につぼみが多いっすね」
千歳のバラと同様に、文紀のためのバラも植えた。
選んだ品種は『スイートドリーム』。花の形が美しい、これも同じく小さめのバラ。
「白雪姫に合わせて王子様の名があるバラが良かったのだけどねえ」
あちこちの業者に探してもらったが、希望するような品種は見つからず。
それらしいものがあっても『シュネープリンセス』に合わせるには大きかったりで、結局"王子様"の名前は断念した。
後日、樹系や色などに絞り込んで、ようやく選んだのがこの『スイートドリーム』だった。
「兄様のバラはとても素敵よ。淡いオレンジで、花束みたいに咲くのよね」
「うん、僕もこのバラは好き。色も形も綺麗だし」
男の子にしては少し華やか過ぎるかと思ったが、咲いてみると美しくて凛とした気品もある。
小さくても立派な姿形は、やはり彼に相応しかったなと友雅は少し自画自賛した。
「で、もうひとつはーーーーーーー」
「まゆきのバラはみんなで選んだのよねっ!」
最後の鉢植えのバラは、これまでのものより株が小さい。
一番幼いまゆきのために植えたので、年期が短いためだ。こればかりは仕方ない。
しかし、それでも手入れを怠らない育て方のおかげか、毎年他のバラに見劣りしないくらいの花が咲く。
「選ぶのに大変だったのだよ、毎日家族会議をしてね」
白いバラが多いから、それ以外の色が良いだろう。
では何の色にするか。パステルオレンジの『スイートドリーム』と調和する、淡い色合いにしようと決定。
ピンク?イエロー?赤?紫やブルー系も良いが、まゆきにはもっと可愛い色が良いと千歳が譲らない。
そういうわけで暖色系に決定。花の大きさは千歳と文紀の花に合わせて小さめで。

「で、厳正なる選考の結果、このバラに満場一致となったわけだよ」
『マルゴズシスター』
3cm程度のコロンとしたカップ咲きのバラ。
全体的には淡いピンク色だが、時折濃いめの色になったりするのが目にも楽しいし、何より色も形も可愛らしい。
「まゆきにぴったりのバラでしょ?可愛くて!」
いつまでたっても千歳の妹びいきは醒めることはない。
兄の文紀はというと性格の違いもあってか、目で見て分かる溺愛ではなく後ろから見守っているような感じ。
それでも彼の愛情はちゃんと伝わっていて、文紀が帰宅するとき真っ先に飛び出してくるのはまゆきだ。
白、オレンジ、ピンクの優しい三色のバラが、寄り添うように咲くこの季節。
仲睦まじい子どもたちの姿と重なり、ただの裏庭が楽園に思えて来る。

「イノリくん、お茶の用意するけど中にする?それとも庭に運ぶ?」
部屋の中から聞こえたあかねの声に、まず友雅が反応する。
「今日は晴れているし暖かいから、庭の方が気持ち良いんじゃないかい」
「分かりました。こっちに運びますね」
「じゃあ私も運ぶのを手伝おう。その間、テーブルと椅子を用意しておいてくれるかな?」
「はーい!」
子どもたちにも仕事を与え、友雅はあかねと共に家の中へと戻って行った。
ぱたぱたと急ぎ足で、千歳たちは庭の奥に向かう。
ログハウスみたいなカントリー調の洒落た物置の戸を開けようとするのを、後から来たイノリが代わりに引いた。
「いくらなんでも重いだろ。俺も手伝ってやるよ」
「まあ、お客様にそんなことさせたら母様たちに怒られちゃう」
「お客様って、俺らからみたらみんなが客だぜ?」
造園業のイノリたちにとって、橘家は大切な顧客。
何よりも、生まれたときから彼に懐いている子どもたちは、イノリからすれば可愛い弟妹みたいな存在なのだ。







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