先月、1枚の紙がナースステーションに貼り出された。
『義理チョコやめました』。
その言葉は、黒いマジックではっきりと主張している。

「ちょっとコレ何なんスかー」
イヤでも目につくその文字を見て、森村が近くのスタッフに聞こえるように言った。
「見ての通り、義理チョコは今年からやめることにしました」
女性看護師二人が、妙に堂々とした姿勢で森村に向かって答える。
義理チョコを配るという習慣は、ここでも当たり前のように存在していた。
この時期になると何となくバレンタインコーナに立ち寄り、何となくお手頃価格のチョコを大量に買ってしまう。
そんな女性スタッフが結構いたのだが、話し合いの結果義理チョコ終了ということになった。
「数百円のチョコだって、個数が多ければ出費もかさむのよ」
「男の人も例え義理だろうと、受け取った以上はお返し考えないといけないし、大変でしょ」
どちらにしても、決して利益があるとは言えない習慣。
ならば、いっそ止めてしまったって困ることはないはずだ。
「そのかわり、超美味しいチョコをおやつに用意して、休憩時間にみんなでシェアすることにしたの」
「森村くんも食べに来て良いわよ。ドクターでも立ち入り自由だから」
彼女たちはにっこり微笑んで森村の肩を叩いたが、正直なところ彼は少し複雑でもあった。
相変わらず完全フリーな身の上、バレンタインに手ぶらでいるのはテンションが下がる。
例え義理であろうと、ゼロよりはマシ…などと、自分に言い聞かせていたのがこれからはゼロになるのか。
「だったら早く彼女作って、本命チョコをもらいなさいよ」
「さらっと言わないでくれますぅ〜?!」
そんな簡単に恋人が出来るのなら、義理チョコごときに拘るわけがない。


「------って話があったんですって」
「毎年バレンタインになると、話のネタに事欠かないねえ」
レモンの香りと酸味、喉元にぴりりとわずかなジンジャーの刺激。
はちみつを彼にはスプーン1杯、自分には2杯。
冬の夜にこんなドリンクを飲むと、身体が芯から温まる。
「でも、森村くんは本当に彼女がいないのかい?」
友雅が尋ねたが、おそらく真実だろうとあかねは思っている。
思わせぶりな隠し事が出来る性分ではないし、もし恋人が出来たなら自然と浮き足立ちそう。
「意外と理想が高いのかな?」
「どうなんでしょうねえ…。元カノさんは全然知らないし、何とも…」
森村とは中学まで一緒だったが、当時の彼は恋愛に無縁だった。
彼女が出来たのは多分その後。だからあかねは彼の恋愛事情をまったく知らない。
「チョコ欲しがってたみたいだし、個人的にプレゼントしようかなぁ」
「天使様は優しいね。だが、旦那様としてはあまり快く思えないな」
「義理チョコですよ?義理ですって」
贈る側のあかねも貰う側の森村も、そのチョコに深い意味がないのは理解しているはず。
それは十分に分かっているのに、つまらない感情が芽生えてしまう…自分の悪いクセ。
治しようにも治らない。すべてあかねのせいなのだけど、と友雅は我を振り返り苦笑する。

「そういうことなので、明日はみんなと買い物に行くので帰りが遅くなります」
仕事帰りに同僚たちとチョコレートを買いに行く約束をした。
隣駅にあるショッピングモールのバレンタインコーナーが、かなり充実していると評判らしいので行ってみたくて。
「楽しんでおいで。夕飯は私が用意しておくから」
あかねの作り置きを温めたり、サラダを作るという簡単な作業だけだが。


+++++


世間で義理チョコが肩身を狭くしている中でも、ここだけは今でも猛威を振るっている。
フロアの半分を占めたスペースに、所狭しと並んでいるのはチョコレート。
あれも、これも、それも、あっちもこっちもすべてチョコ。
『チョコレートパラダイス!』と銘打った売り場のキャッチコピーは、嘘偽りなどみじんもなかった。
「きゃー!どうしよう、どれ買おう!?」
甘くほろ苦い香りに包まれた中、テンションが急上昇する。
ラッピングのカラーまでも、あかねたちの気分を盛り上げる力は絶大だ。
「じゃあ30分は自由行動!おやつにするチョコは、それぞれ1000円のものに限定ね」
他のスタッフから集めて来た軍資金は3000円程度。職場用のお茶菓子は、3人でひとつずつ購入することにした。
あとは個人でいくらでも、いくつでもご自由にお買い物OK。
かごを手に取って、いざフロアの中へ。
「30分で選び終えられるかなあ」
楽しすぎる悩みに顔を緩ませつつ、あかねはメーカーのブースを次々と見て歩く。
海外の高級ブランド、国内の有名メーカーやホテルのショップ。
最近はSNSなどで地方の菓子店情報も一瞬で伝わるため、個人経営のショコラティエが作ったチョコも結構多い。
それらに負けてはならないと、普段づかいの製菓メーカーもこの時期は力を入れてくる。
「たった30分で選べる自信ない…」
あかねはこういう時に、悩み過ぎて決断が鈍る。
食事のメニュー選びや買う服を選ぶ時など、いつも友雅を困らせてしまう(彼は嫌な顔ひとつしないけど)。
しかし、迷ってもいられない。
今一度、買うチョコを頭の中で整理してみよう。
職場のおやつチョコ1000円、お父さんへのチョコ、あと。天真くんにひとつ。
「自宅用が一番選ぶのが大変そうだなー…」
きょろきょろして、足を止めて、の繰り返しをしながらフロアを歩きまわる。
午後8時の閉店まで1時間足らずなのに、チョコレートフロアは客足が減る様子はなかった。

-----30分後。待ち合わせの場所に戻って来た。
客が多いため、当然レジで精算するにも時間が掛かる。
一人ずつ並んで会計を済ませ、あかねは一番最後だった。
「お会計、12580円となります」
その声を聞いたとたん、同僚たちが目を丸くして振り返った。
チョコレートで10000円超えって、どんだけ大量のチョコを買ったのだ!?と思ったら個数はそれほどでもない。
「ちょっと!あんたどういう買い物したの!」
あかねは休憩スペースに連れて行かれ、紙袋の中をひとつずつチェックされた。
1000円のお茶菓子用詰め合わせ、個人的な贈り物チョコが2〜3個。
問題はその他。よく見ると有名ブランドのものや、海外のショコラティエものが。
「このボンボンショコラ、5200円するんですよ」
こっちは2800円、これは2200円、それと…(以下略)。
「ねえ、もしかして本命用?ってことは橘先生の分だよね。先生ってチョコ大好きなの?」
「お酒と一緒に食べたりしますよ」
だからってこんなにたくさん買わなくても、と思ったが、それにはちゃんと理由があった。
「もうバレンタインに贈り物はしないんです。そのかわり、美味しいチョコを買って二人で食べようって決めてて」
つまり、職場の義理チョコ終了と同じ。
本命の彼にプレゼントをしても、いつだって彼はそばにいるのだ。
そして多分彼のことだから、チョコをおすそわけをしてくれる。
「それなら最初から二人用に買っても同じでしょ、ってことになりまして」
「あー…そぉ…」
紙袋にぎっしり詰まったチョコレート。
いや、このフロアに並ぶ商品のすべてが、今の話を聞いて溶け出しそうな気がした。







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