〜春、桜色〜                     伊吹綾様(一握の夢


春が好き。


 ちょっと冷たい風と、暖かな日差し。そして世界を彩る美しい花たち。菜の花が満開になって、桜の蕾が膨らんでくると嬉しくなる。
 春の味も大好き。蕗のとうや土筆、芹、菜の花。ちょっと癖のある味だけれど、その苦味やえぐみ、そして香りに春を感じるから好き。
 ファッションだって、厚いコートを脱ぎ捨て、明るく軽い素材に変わっていくのと同時に、心まで軽くなるから不思議。
 メイクも春色。新色のルージュやアイシャドウが並んでいるとウキウキしてしまうのは何故?

 でも、春が好きな一番の理由は、そのどれでもないの。
 春が大好きな一番の理由・・・。それはあの人と初めて出会った季節だから。
 桜が咲き誇る季節に、いきなり『京』という世界へ飛ばされ、そこで出会った人。
 彼自身、春の王のように華やかで艶やかな人。
 私の為に、自分の世界を捨ててくれたあの人と出会った、季節だから・・・・。


 
 春が好き。


 あの人との時間が始まった季節だから。


 一番、好き。

「あかね、出かけるの?」
 長い髪を揺らし白いスプリングコートを手に持って、階段を降りてきたあかねに母が台所から声を掛けてきた。
「もう少ししたら出るけど、何か用?」
「ねぇ、あかねにいい物あげようか?」
「いい物?」
 首を傾げたあかねを手招きして呼び、母はテーブルの上に置いてあったゴールドで縁取られたシルバーのスティックを手渡した。
「・・・・口紅?」
「そう。春の新色なんだけど、お母さんにはちょっと薄めの色だったのよ。使ったけど、顔色が悪く見えちゃってダメ。この色は若い子に似合う色だと思うからあげるわ」
 あかねはキャップを開け、キュッ、とルージュを回した。
 顔を見せたカラーは綺麗な桜色。ほんの少しだけパールが入っていてキラキラと輝いている。
「貰っていいの?」
「どうぞ。どうせ使わないだろうから。これ、今話題の落ちない口紅よ。でもマットな感じはあまりしないの。ツヤがあるけど落ちにくいから便利よ」
「知ってる。キャッチコピーが色っぽくて有名なやつでしょ?うれしい!あれ欲しかったんだ。この色も気に入ったし、遠慮なく貰うね。お母さん!ありがとう!!」
「どういたしまして。これからデートなんでしょ?どうせなら口紅をひいていきなさい」
「うん!」
「あかね。今日は帰ってくるの?」
「ううん。外泊します」
「そう・・・・。橘さんにご迷惑をかけないようにね」
「は〜い!」
 あかねは明るく返事をして、ルージュを片手にうれしそうに母のドレッサーへ向った。




 
 あかねは高校を無事卒業し、この春から大学生になる。
 高校時代は友雅との付き合いを認めながら、あかねの外泊は頑として許さなかった母が、卒業したと同時に何も言わなくなった。
 母の持論は『高校までは親の責任、それ以降は自分の責任』だから、高校を卒業したあかねには、人に迷惑かけない限り干渉しないのだ。
 もちろん何かあっても責任はあかね自身にある。母にそう言われ、自由には責任があることをあかねは改めて思い知った。
 その事を友雅に話したら、何ともいえない表情を浮かべ彼は苦く笑ったものだ。

 あかねは母の言葉を肝に銘じながらも、春休みに入ったとたん、頻繁に友雅の部屋に遊びに行っていた。もちろん泊まる事も度々だ。
 今日もあかねは友雅の仕事が休みなのを幸いに、部屋へ遊びに行く約束をしていた。当然友雅の方は、二つ返事でOKだ。
 あかねは母に貰ったばかりの、桜色のルージュをひいて家を出た。

「いらっしゃい、あかね」
「お邪魔します!」
 友雅が開けてくれたドアを、買い物袋片手に入る。男の一人暮らしには広すぎるマンションの一室は、あかねの通いなれた場所だ。
 買い物袋をキッチンに置いて、友雅と一緒にリビングに足を踏み入れた瞬間、目の前の光景にあかねは感嘆の声を上げた。
「わぁ・・・!すごい・・・!!」
 窓際に置かれた、筒状の大きな陶器の花瓶。
 それには数本の長い桜の枝が無造作に立てられていた。
 桜の花は今まさに満開。薄紅色の桜はとても綺麗で、あかねは桜の枝の側に寄った。
「綺麗・・・!でも、どうしたんですか?まさか友雅さんが桜を切った、なんてことはないですよね?」
 そう訊ねながら、あかねは友雅に不審な眼差しを投げかける。あかねを喜ばす為に、時折とんでもないことをする友雅は、あまり信用がないのだ。
 あかねの訝しげな視線に、少しだけ肩をすくませ友雅は苦笑を滲ませた。
「『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』それくらいのことは知っているよ?これは昨日花屋で見つけてね。先程届けてもらったんだよ。・・・あかねは、桜が大好きだろう?」
「はい!へへ・・・、実はおいしそうな桜餅と桜のアイスを見つけたから買って来ました。あとで食べましょうね!」
 あかねは桜の季節になると、とにかく桜関係のものにめっぽう弱くなる。おかげで毎年毎年、桜を使った『何か』が増えていくのだ。
 それは食器だったり、絵葉書だったりと色々だが、どうやら今年は桜を使った食べ物にはまっているらしい。
 友雅はうれしそうに桜を眺めるあかねの横顔を、慈しむような眼差しで見つめていた。

 この前会った時より、ほんの少し大人びた表情。
 高校を卒業してからの一月で、頻繁に会っている友雅が驚くほどあかねは美しく変わっていた。
 まるで、冬の間固く閉じていた蕾が、春の暖かさに一気に綻ぶように・・・・。
 さなぎから蝶へ変化するかのごとく、少女から娘へそして女へと変わっていく。
 出会ったころは、ともすれば藤姫より幼い印象の、無邪気な少女だったあかね。
 それが今は・・・・。
「友雅さん?どうしました?」
 自分を見つめたまま、身じろぎすらしない友雅にあかねが不思議そうに呼びかける。
 そのあかねの瞳に、ほんの少しの不安を見つけ、友雅は安心させるように微笑みを浮かべた。
「いや・・・、あかねがあまりに綺麗だから見惚れてしまったよ・・・」
 友雅の言葉に、あかねの頬が朱に染まる。友雅の美声で囁かれる褒め言葉には、いつまで経っても慣れることが出来ない。
 あかねは照れ隠しに、ちょっと頬を膨らまして拗ねてみせた。
「もう・・・・!」
「ふふふ、膨れっ面も可愛いね」
 ツンッ、と頬を突付かれ、膨れていたあかねがふんわり顔を綻ばせる。友雅のたわいない一言で、あかねはいつだって笑っていられるのだ。
「おや・・・?今日はあかねも桜色でおめかしかい?」
 あかねのパールに輝く唇に、友雅は目ざとくチェックを入れる。
 ほんの少しの変化にも気付いてくれたのがうれしくて、あかねは人差し指で自分の唇を触った。
「お母さんに貰った春の新色です。綺麗な桜色でしょ?」
「ああ、あかねにとても似合ってるね」
「うれしい!今話題の、色が落ちにくい口紅なんですよ、これ」
「あかねは流行りに弱いねぇ・・・」
「流行に敏感じゃないと女子大生はやっていけません!・・・それにこの口紅のキャッチコピー、すごく素敵で気になってたから・・・」
「キャッチコピー?」
「はい。CMとかよく流れてますよ?『あなたのキスでも奪えない』っていうやつ。知りません?」
「さぁ?」
「友雅さん、あまりテレビ見ないもんね。でも、キャッチコピーどおり、口紅が落ちなくて便利なんです。・・・えっ?・・んんっ!」
 何の前触れもなく、友雅にいきなり抱きしめられ桜色に染めた柔らかな唇を塞がれた。
「やっ・・・う・・ん・・」
 長い髪を絡ませるように後頭を抱かれ、合わせられた唇。白い真珠のような歯を舌先で割られて、深く深く口腔を探られる。
 呼吸もままならない激しいキスに、あかねの目尻に涙が光った。お互いの蜜が交じりあい溢れ、飲み下せなかったものが、あかねの口の端から一筋流れ落ちる。
「ふ、ぁ・・」
 唇が解放された瞬間、小さな悲鳴があかねの口から漏れた。
 お互いの唇を繋ぐ銀糸を、友雅があかねのふっくらとした唇を親指で撫でて拭う。
「・・・もう・・・、いきなりは、やめて・・・」
 微かな非難の声に、友雅が目を細める。そしてほんのりと頬を赤らめたあかねの目尻に、オマケとばかりに軽いキスを落とした。
「挑戦されたから、ね・・・」
「挑戦?」
 不可解な友雅の科白に、あかねが訝しげに眉を寄せる。友雅はゆっくりと何度もあかねの唇をなぞった。
「『あなたのキスでも奪えない』」
「あれは!!」
「でもほら、私のキスで奪えたよ・・・」
 そう間近で微笑まれ、あかねは言葉を失ってしまった。 
「謳い文句のわりには、落ちやすいね」
「・・・・キスの種類が違うと思います!」
 憮然とあかねが反論する。しかし友雅はどこ吹く風だ。
「おや?そうかい?」
「キャッチフレーズを考えた人は、絶対フレンチキスは想像してません!軽いキスです!!」
「それは気付かなかったねぇ・・・」
 いつものごとくしらばっくれる友雅に、あかねは諦めを含んだ深い息をついた。
「もう・・・。せっかくの口紅が落ちてしまったじゃないですか。綺麗だったのに・・・」
「それはすまないねぇ・・・。でもあかね?」
「はい?」
「紅が落ちても綺麗だよ?」
「そんなことないです!」
 力いっぱい言い切るあかねに、友雅がクスリと笑った。
「あかねには見えないかもしれないけど、ほら、今のキスであかねの唇が明るい春色に染まった・・・」
 友雅に仕掛けられた激しいキスで、ふっくらと薄紅に色づいた、艶やかでみずみずしい唇。
 その唇に友雅はそっと指先で触れた。
「どんな紅を差すよりも、あかね自身の紅の方が暖かくて綺麗なのだよ」
「・・・・キスの所為です。いつもは違うから・・・」
「だったら私がいつもこうして紅を差してあげようか?」
 悪戯めいた友雅の申し出に、あかねの顔に微苦笑が広がった。
「・・・・・・馬鹿・・・」
 吐息にまぎれた呟きは、その単語の意味とはうらはらに甘い響きを持っている。あかねは苦笑を幸せに満ちた笑みに変え、友雅の胸に顔を埋めた。


 春が好き。


 かけがえのない大切な人を見つけた季節だから。


 今年もまた、桜と共に新しい一歩を踏出す。


 まだ見ぬ未来に向って、二人で・・・・。
  
 

 
 

                                         <終>