葦の根             玉梓時子様(ときのたまご


「泰明さん」
周囲に配慮してか少し控えめだが、可愛らしく良く通る少女の声が館内に響く。
「走ってきたのか、あかね」
泰明は読みかけの本から顔を上げ、その声の主に微笑を返す。

ガラス天井から降り注ぐ初夏の日差しに、少女———あかねの華奢な輪郭が淡く縁取られ、ほんのり浮かび上がる。

息が軽く弾んでいる。あかねは微かな薔薇色に上気した顔に満面の笑みを湛えたまま、泰明の隣の席に腰掛けた。

乱れた髪を手櫛でさっと整えると鞄から一冊の本を取り出し、泰明の前に置いた。

土曜のお昼、図書館で会うのが2人の約束。
あかねの学校と、泰明が奉職する神社の中間地点に位置するここで待ち合わせ、ランチを一緒にとってから各々の読書や勉学に励む。

天真に云わせると「色気のないデート」だが、あかねはそれでも十分に満足している。静かに共有する時間というのも良いものだ。

「枯れちまった老人か、お前たちは」…とも揶揄されているが。
あかねたちが京からこちらの世界に帰還してから、一年の時間が流れた。

遅れた勉強を取り戻すための補習は厳しかったが、今はあの世間を騒がせた失踪事件も徐々に風化し、学内で噂されることも少なくなってきたようだ。

詩紋もこの春に同じ高校に入学し、蘭も来年の受検を目指して猛勉強中だ。

一年前、京から帰還した時は異質に感じられた自分たちの存在が、今は馴染んですっぽりと日常の流れの中に融けこんでいる。
深夜、ふと目が醒めた時などに『京での出来事が夢であったのではないか…』と思うこともある。

そんな時は必ずベッドの枕元のボードに飾られた写真立てに手を伸ばして、白木のシンプルなフレームの中にある優しい笑顔を確認する。

写真は去年の秋に、あかねの両親が泰明を誘って旅行した先の海岸で撮った。

初めて海を目にする彼が、喜びに目を輝かせてあかねを振り向いた瞬間に撮影したものだ。少し手ブレした写真から伝わる彼の躍動感。

飾り気のないフレームの中に収められた、自らを飾る事を知らない彼が見せた、心からの笑顔があかねの不安を拭い去る。
生まれた世界…京を棄てて、あかねとともに時空の道を渡ってきた泰明。

彼は、今ここに…同じ時空の中に確かに存在しているのだ、と。

「これ、泰明さんに見せたかったの」
「拾遺和歌集…」
「夕べね、古文の予習で古語辞典を使っていたの。そうしたら、あの歌を見つけて…それで今朝、学校の図書館から借りてきたの」
「あの歌…?」
拾遺和歌集……平安時代中期に成立した、花山院の撰と伝えられる和歌集だ。

小さなピンク色の付箋のつけられたページが、あかねの手で開かれた。

  葦根はふ うきは上こそつれなけれ
              下はえならず 思う心を

泰明が、和歌を見つめて静止する。

そっと、目を瞑る。

横から泰明の顔を覗き込むあかねが、ふわりと微笑む気配を全身で感じた。


「おはようございます、神子様。………神子様? どうかなさったのですか…?」
あかねが朝餉を済ませた頃合いを見計らって、藤姫があかねの部屋に訪れる。

毎朝の日課だ。しかし、今朝は少し違っていた。

文机に頬杖をついて何やら思案中のあかねは食事に手を付けていない。

盛り付けもそのままの膳を見て、藤姫の眉が憂いにひそめられた。
「お身体の調子が優れないのでしょうか…神子様…」
「えっ、あ、違うの藤姫。ごめんね。考え事していたらつい食べそびれちゃったの。今から戴くから、もう少し待っていてくれる?」
「お汁も菜もすっかり冷めてしまったみたいですわ。温め直すように申しつけましょうか?」
「いいのいいの。気にしないで」
あかねは素早く文机から離れ、食膳の前に座る。

京の食事は一日2回だ。朝餉は午前10時頃、夕餉は午後4時頃になる。

朝餉の前に固めの粥を食べることもあるが、今のあかねの前にあるような本格的な食事を朝のこの時間に摂る者はいないだろう。

この時刻、厨は朝餉の準備に追われているはずだ。

ただでさえあかねや天真たちのために常識的でない時間に食事が用意されていると云うのに、これ以上厨(くりや)の人に手間をかけるのも憚られる。

それに、毎日決まった時間にきちんとした食事が摂れると云う事がいかに贅沢な事であるかを、京の市中で見た庶民の生活ぶりを見て、知った。

調味料が少なくて味に変化がないのも、素材の味を活かした自然派志向のヘルシー料理、と思ってしまえば美味しく戴けるような気もする。

天真はお醤油やソースがなくて肉料理が少ないことを、詩紋はお砂糖がないことと、厨を借りて料理を作る際に思うように火の制御ができないことを嘆いていたが。
戴きます…と箸を手にしたあかねを見て、藤姫が安心したように腰を下ろした。
「でも、いかがなさいました? …朝から考えに沈まれるなんて…」
「うん。ねぇ、藤姫…。あれ見てくれる?」
藤姫があかねの視線を追って、あかねの後ろに置かれた文机に目を向ける。
「あれは…お文の箱のようでございますわね。どなたからのものでしょう…」
「それがね、不思議なの。今朝起きたら、私の枕元に置いてあったの。朝、女房さんたちが蔀を上げてくれるまで、妻戸だって鍵をかけたまま一度も開けていないのに…」
「まぁ…不思議なことですわ。それで、中をご覧になりましたの?」
「うん。呪詛みたいな、嫌な感じはしなかったから開けてみたの。中に入っていた文は和歌だと思うんだけど…やっぱり私にはまだ読めなくって…だから、藤姫に見てもらいたいの」
藤姫は文机ににじり寄ると、文が書かれた紙を手に取った。

横に置かれた文箱に入れて届けられたのだろう…と藤姫は推測した。

飾り気のない黒い漆塗りの文箱には、まださほど使い込んだ痕跡は認められない。
「葦根はふ………」
あかねの後ろで藤姫が紙を手に、考え込むような仕草を見せる。

あかねは急いで食事を済ませると、藤姫の前に回った。
「それでね、これが添えられていたの。これは葦、だよね?」
文机の端に置かれた、短く刈り取られた葦を手に取り、藤姫に指し示した。
「ええ。お歌の内容も葦を読みこんだもののようですわ。でもこの意味するものは………」
「どうしたの、藤姫。そんなに難しい内容だったの?」
「間違いなく恋を詠ったものだと思うのですが…。あの、神子様…今朝は鷹通殿がいらしています。よろしかったら鷹通殿に解釈していただいてはいかがでしょうか」
わたくしではまだ恋の歌はうまく読み解けないかも知れませんもの…

そう呟いて恥じらう様子に、年相応の幼さと愛らしさが感じられて、あかねの目が柔和な笑みの形に細められた。
「鷹通さんに? うん、鷹通さんなら丁寧に解説してくれそうだね。そうしようかな…ね、ところで藤姫…。今日も…泰明さんは来ていないの?」
「ええ…。先日の失踪事件からお戻りになってからは、あんなに足繁くお通いでいらしたのに…ここ3日ほどは陰陽寮の方に御出仕なさっているみたいですわ。あの方もいろいろお忙しいとは思いますが…。神子様がこのところ少し塞ぎがちでいらっしゃるのは、やはり…」
「ううん…いいの、本当に気にしないで」
「そうですか…。では、鷹通殿をお通ししてもよろしいのですね?」
静かに藤姫が席を辞した。微かな衣擦れの音があかねの耳に残る。
「泰明さんの…ばか」
ぽつり、とあかねが呟いた言葉が聞こえたのか、藤姫の歩みがほんの少し、乱れたようだった。
ここ5日ほど、泰明は左大臣家に訪れていない。
以前は毎朝のようにお迎えに来てくれたのに、今は会う事を避けられている…………と思う。

泰明が突然の失踪から戻ってきて、10日になる。

己の中に心の存在を認めた泰明の、泣き、そして笑う姿に胸が締付けられた。

あかねのことを『愛しい』と云って、抱きしめてくれた。

ずっと、想い続けてきた人にようやく想いが通じたと思ったのに………

それなのに、彼はあかねを避けるようになってしまった。

視線を合わせるのを避けるようになり、会話が少なくなり…そしてついに、5日前から姿を見せなくなった。
簀の子を渡る足音が次第に近づいてきた。

大きな歩幅でゆっくり歩く力強い足音は鷹通のものだろう。

藤姫の小さな足音も微かに聞こえる。
御簾をかいくぐって室内入ってきた鷹通に軽く挨拶を交わすと、

文机を挟んであかねと向かい合う形で腰を下ろした。

女房が運んできた白湯を戴いて一息ついたところで、あかねは葦と共に歌の書かれた紙を彼に差し出した。
「…これは…書かれているこの歌は確かに恋慕の情を詠いこんだものではありますが…。それにしてもおかしな紙に書かれたものですね」
「そうですわね。恋文はもちろんのこと、少なくとも人に差し上げるお文に使う紙ではありませんわねぇ」
藤姫が同意する。

鷹通は手にした紙を何度もひっくり返しては、しげしげと検分している。

あかねにも、その紙が変わっているものだということは分かる。

恋の歌が書きつけられているとしたら、なおさらのこと。

歌の書きつけられた紙————それは、粗く固い、ごわごわとした紙。

何かの文書の下書きにでもしたのであろうか、あちこちに小さな字で書きつけがある。

歌の筆跡も決して流麗とは云えない。

普通、恋の歌であれば薄様(うすよう)と呼ばれる、薄く漉いた色鮮やかな紙に書きつけるはずだ。相手の好む色合わせに心を砕き、美しい花を添えて…。

恋文でなくとも、あかねは物忌の時に呼ぶ八葉に対して、その人の好む色合いの薄様に文を書き、好む花を添えて届けてもらっている。

最も、あかねが選ぶ紙は淡香色の薄様であり、添える花は山吹か藤であることがほとんどであったが。
「ところどころで筆を止めて、考えながら書いたのでしょうね。墨がこんなに滲んでしまって…。おそらく仕事中に、手元にあった紙に思わず書きつけてしまった…と考えるのが無難でしょう」
「お仕事中に…?」
鷹通は紙を文机の上に広げた。
「…では、神子殿。まず上の句の解釈から入りましょう。『葦根はふ うきは上こそつれなけれ』…。ここで歌に詠まれ、そして文に添えてあった葦が水辺に生えることはご存知ですね?」
葦を手に取り、あかねはこくり、と頷く。

鷹通はあかねの反応を見て、話を続ける。
「葦は水辺の浅い場所、つまり泥土に覆われたところに生えます。泥土のことを『うき』と読むのですが、この歌の『うきは上こそ』の『うき』が、これに当たります」
「鷹通殿。『葦根這う』は『うき』にかかる枕詞ですわよね。それと『うき』は同じ音である、憂いの『憂き』にかける言葉だと先日習いましたわ」
藤姫があかねの後ろから控えめに云う。

鷹通は藤姫の賢しい発言に、嬉しそうに目を見張り、微笑みながら頷いた。
「藤姫のおっしゃる通りです。これを踏まえて上の句を読み解くとこんな感じでしょうか。

『葦の根が這う沼地は、根がいかに複雑に絡まっていようとそんな様子をまったく見せることはない。冷淡なほどにも静かである』これに下の句の『下はえならず 思ふこころを』を合わせてみてください。…神子殿、如何ですか?」
鷹通が発言を促す古典の教師のように感じられて少し苦笑しながらも、あかねは頭の中で歌意をまとめてみる。じっくり考え…そして、口を開いた。
「葦の根が這えている沼地は泥土に覆われて、表面からその内面の様子を窺い知ることは決してできない。私もそのように、想いに絡む心の内を表だって見せることないけれども…………強く、強く…あなたのことを恋い慕っているのです…」
静寂に包み込まれた室内に、庭先で鳴く鳥の澄んだ声が響く。
「想い人に素直に恋心を伝えることのできない人の詠んだ、不器用な、恋の歌ですね…」
鷹通の感想に続いて、藤姫も小さな声でぽつりと感想を漏らす。
「まるで恋心を隠して耐えることを美徳として、自分を戒めているようにも思われますわ」
「神子殿。私は専門外なので断定はできませんが…この紙の端々に書かれた書き付け…これは、星の運行を計算したもののように思われます。そしてこの紙は官庁で使用される雑書用の用紙に手触りが良く似ています。官庁で天文道に携わり、不器用で、不思議な形で文を届けることが可能な人物…。私には痛いほどに心当たりがあるのですが」
「まぁ…本当に。偶然にもわたくしにもおひとり、心当たりがありますわ」
くすり、と微笑みながら藤姫と鷹通が目配せしあい、その視線をあかねに向けた。
紙を見つめた姿勢のまま、あかねは言葉もなく固まっていた。

顔が上げられない。
————きっと私の顔、真っ赤だわ…。
ひょっとして泰明から届けられた文なのではないか…と云う予想はしていた。

けれどまさか…あの泰明から恋歌が贈られるなんて、想像すらしていなかった。
————ラブレター…なんだよね、これ…。
あかねは歌の書きつけられた紙と葦をそっと胸に抱いた。

細く尖った葦の葉は、小刀のように鋭利で…かの人を連想させる。

全てにおいて清冽な、ただ一人の、大切な人。

「あ、あの…。鷹通さん、藤姫、歌の意味を教えてくれて…ありがとう。ごめんなさい、ちょっと出かけてきます!」
云うが早いか、あかねは立ち上がると部屋から走り出た。
「神子様! どちらへ!!」
藤姫の声を背中で聞きながら、振り向きもせずに答えを返す。
「陰陽寮へ!」


軽やかな足音が遠ざかる。

ふぅ、と小さなため息をついたのは藤姫だ。
「またお一人で行ってしまわれましたね、藤姫」
「鷹通殿…。追いかけては戴けないでしょうか?」
鷹通が立ち上がる。
「もちろんです。大切な神子殿をお守りするのは我らの勤め。それにもし万一、神子殿の身に何かあれば、我ら八葉の身にも必ず災いが降りかかるような気がいたしますから」
「まぁ…ふふ、その災いは稀代の大陰陽師様を師と仰ぐお方から差し向けられるものなのですね?でも、わたくしが落とす怒りの雷もお忘れなく」


ごわごわした雑書用の紙に書いた文章を、正式な文書に用いる上質な紙に書き写す。楷書で丁寧に、文字を綴る。書く者の性格を表しているような、精緻な筆跡だ。その筆がぴたり、と止まった。筆を押し付けられた紙の上に、瞬く間に黒い染みが広がってゆく。
「————神子!?」
ふいに立ち上がった泰明に、周りの同僚たちが怪訝な視線を向ける。

泰明はその視線を無視して、その場を走り去った。

神子の神気を感じる。その気に自分の気を合わせ、全神経を集中させる。
————いた。
植栽の椿の木の陰から、忙しなく視線を走らせて陰陽寮の建物を見ている神子———あかねを見つけた。

静かにあかねの死角に移動し、大地に降りる。

気配を消して近づく泰明に、彼女は気付かない。きょろきょろと顔を動かしていたあかねは、やがて一つため息をつくと椿の下に据えられた岩に腰掛けた。
「ばかだなぁ、私…。陰陽寮にまで押しかけてきて…また『思慮が足りない』って云われるのがオチなのに。迷惑だって、怒られるの分かっているのに。泰明さんに嫌われるのが、恐いのに………」
「嫌われるのを恐れているのは、私の方だ……」

突然頭上から降ってきた声に、あかねは驚いて振り仰いだ。

泰明が自分の背後に立っていた。それも至近距離に。
「や…っ、泰明さんっ! いつから私の後ろに〜〜〜〜〜!!!」
あまりに勢い良く振り向いたために身体の均衡が崩れ、あかねは岩からずり落ちそうになったが…すんでの所で泰明に抱え上げられた。
「恐れているのは…私なのだ…」
耳元に泰明の押し殺したような低い声が届く。
「泰明さん…?」
「神子、なぜここにいる…」
「泰明さん…私がなぜ、ここにいるのか、って…。それじゃ、泰明さんこそ、どうしてここにいるの? どうして顔を見せに来てくれないの? ずっと待っているのに…私…何か嫌われるようなこと、あなたにしたの…?」
後ろから抱き留められた身体を解いてくるり、と泰明に向き直る。

大きな瞳いっぱいに涙が浮かび、瞬きとともに零れ落ちた。

泰明がその涙をそっと、狩衣の袖で拭いとる。
「神子、泣くな…このような所で…。お前の泣き顔を、みなに見せたくない」
「え? みな、って…?」
泰明は顔を上げると、陰陽寮に目を向けた。

ぐるり、と走らせる視線に追われるように、御簾が慌てて降ろされる。

柱の後ろに人影が走る。泰明の同僚たちに一部始終を覗かれていたことに気付き、あかねの顔が瞬く間に紅潮した。
建物の中にあかねを誘いながら泰明は、すっと視線だけを切り懸け(きりかけ=板塀)に送る。鷹通が泰明に向けて軽く手を上げ、踵を返す姿を視界の端で捉えた。
泰明に割り当てられている一角にあかねを座らせ、素早く部屋中の几帳と衝立障子をかき集め、あかねの周囲に張り巡らせる。

鈴を振るようなあかねの声は、女性のいない陰陽寮の中では異質だ。

人払いは一応してあるが、油断はできない。同僚たちは息を潜めて、耳を澄ませて部屋の外から泰明の様子を覗っているだろう。

少女特有の声は、嫌でも同僚に聞かれてしまうだろうが…姿が見られないだけ、ましだ。

几帳で隔てた向こうの様子を垣間見ることを目的として、わざと縫い合わせていない綻びも、今は憎いばかりだ。帷子の端をぴっちりと合わせる泰明を横目に見ながら、あかねは泰明の文机に近づいた。
巻物と冊子がうずたかく(しかし彼らしく整然と)積まれたそこには、大量の紙も重ねて置いてあった。あかねは一番上に置かれた紙を手に取った。

走り書きがあちらこちらに残された、粗く固い、ごわごわした紙。
「何をしているのだ、神子」
あかねが振り向くと、泰明は怪訝そうに眉をひそめながら、あかねの向いに腰を下ろすところだった。座った泰明の前に、紙を置く。
「…? この紙がどうかしたのか?」
泰明は、無表情であかねを見つめてくる。

あかねはスカートのポケットから葦を取り出し、泰明の前に置いた紙に添える。

ほんの少し、表情が揺らいだ。少しだけ見開いた目を文机の辺りに、すっと泳がせたように見えた。

泰明の顔を見据えたまま、あかねはもう片方のポケットから歌の書きつけられた紙を取り出し、静かに開くとそれを葦の横に並べる。
がたん、と大きな音を立てて慌てた様子で泰明が立ちあがった。

そのまま文机に取り付き、何かを探すように積まれた紙をばさばさと荒々しく払い落とす。
「…………ない。神子、それは…その紙はどうしたのだ!」
立ちあがり、高い視点から鋭く凝視してくる泰明の視線と、詰問する口調に耐えられず、あかねは顔を下げた。

瞬間、この文は泰明が別の女性に向けて書いた恋文だったのではないか…とあかねの胸に不安が過る。
「朝、起きたら私の枕元に置かれていました…。泰明さんが届けてくれたと思ったから…だから…」
…間違って届けられた恋文…?

声が、消え入りそうだ。全身が緊張で小さく震える。

一筋頬を伝った涙がぽとり、と手の甲に落ちる。

泣き顔を見られまいと、あかねは両手で顔を覆った。

はっ、と泰明が短く息を飲む音が聞こえた。

あかねの涙に気付いたのだろう。急ぎ、あかねの横に膝をつく。

「すまぬ、お前を責めるつもりはなかったのだ」
菊花の香が微かに薫る泰明の袖がふわり、とあかねの身体を包み込む。
「…すまぬ…。取り乱した。神子…それは、今朝お前の元に届けられたと云ったな」
顔を覆ったまま、あかねは小さく頷いた。

泰明は大きく息を吐くと、あかねを包む腕に、力を篭めた。
「………また、お師匠にいらぬ心配をかけたか。…その歌は昨日、私がここで書いたものだ。お前のことを想って、な。だが、決して贈るつもりはなかったのだ。お前を絡め取る葦にはなるまいと思うゆえに。秘しておくつもりであったのに…さすがに敏いな、お師匠は」
泰明の腕の中で、あかねが身じろぎする。
「それじゃ、やっぱりこの歌は、泰明さんから私に…?」
「そうだ…。それをお師匠が見つけて、式神を使ってお前の元に届けさせたのだろう。私に見つからぬようにこっそりと。葦まで添えるとは、ご丁寧なことだ」

あかねが顔を上げた。
「どうして? …どうして、その歌を私に贈るつもりがないの…。泰明さん、私のことが嫌いになったのですか…?」
潤む大きな瞳に見上げられて、泰明の顔に仄かに朱が差したようだ。
「嫌いになど、なるはずがない。お前への想いは募るばかりだと云うのに…。だからこそ、私は恐れているのだ。お前が私の元を去って行ってしまうことに」
「私が去る、ですって?」
「神子は、鳥だ。時空を渡る…渡り鳥だ。お前は以前、私のことを『水面のように澄んでいる』…と云ってくれたな。…違うのだ。外からは見えないだけで、私の心の水面下には葦の根が深く絡み合っているのだ。渡り鳥が羽根を休めるために降り立った、その足を絡め捕って深く沈めて我が物にするために!」

心を吐き出すように話しながら、泰明の腕が半ば無意識にあかねをきつく締め上げる。
「や、泰明…泰明さん…、痛いですってば!」
あかねの訴えで僅かに力は緩められたが、それでも離そうとしない。身体を捻じるようにして何とか両手を外に出すと、あかねは泰明の顔を優しく包み込んだ。
「渡り鳥…? 私が?」
「そうだ。時が過ぎれば、お前は故郷へ渡って行く。在るべきところへと。渡り鳥は還るべきなのだ…それなのに、日毎お前を想うたびに…お前を還したくなくなってゆく…。だから、お前に逢いたくなかった。逢わずにいれば、この想いも心の淵に沈めることができると思ったのに…」
「思ったのに…?」
あかねは泰明の瞳を覗きこみ、続きを促す。
「できなかった。あんな歌を詠んで…お前を苦しめるだけだと云うのに…」
ぽろり、と涙が泰明の色の異なる両目から零れ落ちた。背けようとするその顔をぐい、と押さえ込むと、あかねは頬を軽く抓る。
「…神子?」
「ばか! 私は…泰明さんに嫌われてしまったんじゃないかって、あんなに悩んでいたのに! 私を絡め捕って沈めてしまう、ですって!? 私をばかにしないで!」
泰明が驚きに目を見張る。

あかねを抱きしめたままだった腕を解き、後ろに下がって逃げようとする。

あかねは泰明の首に縋り付く。逃すまいとするかのように。
「…ばか。女の子はね、好きな男性に絡め捕られるのなら、全然嫌じゃない…ううん、とっても嬉しいことなのに。…それに泰明さんったら、まだ私のこと甘く見てる。この私が、少しでも嫌だと思う所に大人しく捕まると思っているの?」
少しの沈黙の後、あかねの耳元で泰明が小さく笑い声を漏らすのが聞こえた。
「思わない」
「でしょう? 私、ここに来て脚力も上がったみたいだから、きっと足に絡んだ葦の根を『うき』から根こそぎ抜き取って、そのまま一緒に故郷まで渡っていけそうな気がするの」
「お前の世界に?」
「そう。あなたを連れ帰ってしまうの」
「…行けるものならば…お前に迷惑でないならば…私も、行きたい」
「行きましょう、この戦いを終らせて。あなたが行けないのなら、私がこちらに残るから。帰れ、って云っても絶対に一人では帰らないわよ。うふふ、なんだか心の『憂き』が晴れて、『浮き立って』きちゃったv」
あかねは泰明の首に縋り付いていた腕を、そっと解いた。

泰明の眼差しは優しく、静かにあかねの心の奥に染み入ってくるようだ。

あかねも満面の笑みを返す。
「神子は、強いな」
「龍神の神子だもの」
くすり、と小さく笑み交わした後、衣擦れの音が微かに響く。

それきり静寂に包まれてしまった泰明の几帳の中を、垣間見ようと同僚たちが覗いているが、ぴっちりと閉ざされた中は、窺い知ることはできない。ざわざわ…とざわめく男たちの声を遠くに聞きながら、あかねは抱きしめられた泰明の腕の中でそっと、目を閉じた。

「まさか本当に葦の根ごと抜き取って帰ってこられるなんて………思わなかったなぁ…」
明るい陽射しが、図書館のガラス天井からきらきらと降り注ぐ。
あかねは両手で頬杖をついて泰明を見上げた。

泰明は片手で顔を覆っているが、指の隙間から覗く眦(まなじり)と口元は柔らかな曲線を描いている。
「本気だったとはな」
「あら、泰明さんも私を本気で絡め捕ろうとしていたんじゃないの?私は京に残るって云ったのも、本気だったのに」
くく…と微かに笑いながら、泰明は覆っていた片手を顔から除けると、身体をずらしてあかねに向き直った。ガラス天井から零れる初夏の陽射しに、泰明の今は琥珀色に変わった両目がきらり、と悪戯っ子のように煌いた。

「お前の自慢の脚力に、負けた」
「失礼しちゃう!」
あかねはくすくすくす…と小さく笑った後、大きな瞳をくるりと動かして泰明を見た。
————あかねの瞳がこの動きを見せる時は、何かしら楽しいことを思いついた時だ。

泰明は僅かに首を傾けて、あかねの言葉を待った。
「ね…、今日ね、進路希望の提出日だったの」
「進路希望? 大学に進むのか?」
「うん。私、日本文学を勉強したくて。もちろん、平安時代の王朝文学を専攻するの。…だって、泰明さんから貰った歌、書かれた文字と歌意を自力で読み解くことができなかったのがいまだに悔しくって。…生まれて初めて貰ったラブレターを人に読んでもらわないと理解できなかった女の子の気持ち、分かるかなぁ…」
泰明は拾遺和歌集に目を落とした。
「そうだったな。鷹通と藤姫にまで読まれてしまったのは、私にとっても不本意だ。あの時お前にもう少し語学力があれば…」
「んもー、云わないでよ」
軽く頬を膨らませて抗議するが、泰明は意に介さない。

あかねは本に手を伸ばし、印刷された和歌の上にそっと指を置いた。
「…でも、ね。あの時、晴明さまが泰明さんの文机からあの紙を見つけて下さらなかったら…鷹通さんと藤姫に私が歌意を尋ねなければ…この歌は、ここにはなかったんだなぁ…って思うと、すごく不思議な気持ちになるの」
題名も、詠み人の名も伝えられていない和歌。

《詠み人しらず》とされたその歌から、千年の時を超えて伝わってくる

恋慕の想いは、悲しいほど強く苦悩に揺れて。
あかねはちらり、と泰明の顔を仰ぎ見た。泰明が微笑み返す。

晴れ晴れとしたその表情からは、歌に詠みこまれたような憂いは感じられない。

それは、自分の存在への揺るぎなき自信。
「今、ここに…あかねの傍に在る。千年前にもあかねの傍に在った。お前とともに時空を超えた私は、夢ではなく確かに存在しているのだな…」
「うん………。ねぇ、私、頑張って勉強するから…また歌を贈ってね。ちゃんと自分で歌意を読み解いて、返歌だって詠むんだから」
泰明の目が、意味ありげに細められた。

一年で様々な表情を見せるようになった泰明だが、この表情は初めて見る。

きょとん、としたあかねに顔を寄せると、耳元でそっと囁く。
「それはいつか、後朝の文を贈る朝まで待て…」
「き…っ、きぬぎぬぅ〜〜〜〜〜!?」
思わず大声を出してしまったあかねを、図書館の司書が厳しい顔で睨む。

あかねは慌ててぺこり、と頭を下げると泰明を睨みつけた。

恥じらいに赤く染めた少女の顔は可愛らしく、迫力に欠けるのだが。
泰明はきらきらと光るガラス天井に顔を向け、目を瞑る。

心の湖に葦の葉が風にそよぐ音が響く。遙か上空から飛来した渡り鳥が、優しく羽ばたきながら水面に舞い降りる姿が見えるような気がした。